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横浜地方裁判所 昭和36年(ワ)380号 判決

原告 国

訴訟代理人 川本権祐 外四名

被告 日本農林株式会社 外一名

主文

原告に対し被告日本農林株式会社は金四、〇三二、四四九円及び内金三、八七三、三四〇円に対する昭和三五年一一月六日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

原告に対し被告蚕糸共同株式会社は金一、九六〇、五〇二円及び内金一、八八〇、一〇九円に対する昭和三五年一一月六日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は三分し、その二を被告日本農林株式会社の、その一を被告蚕糸共同株式会社の負担とする。

この判決は、原告が被告日本農林株式会社のため金四〇、〇〇〇円の担保を供するときは第一項につき、また被告蚕糸共同株式会社のため金二〇、〇〇〇円の担保を供するときは第二項につき、それぞれ仮りに執行することができる。

事実

原告指定代理人は主文第一、二項と同旨ならびに訴訟費用は被告らの負担とするとの判決と仮執行の宣言を求め、その請求原因を次のとおり述べた。

一、原告は繭糸価格安定法にもとづき、生糸の買い入れ業務を行うところ、生糸の販売を業とする問屋である被告らと、以下記載の売買契約をした。

(イ)  原告は昭和三二年一二月一八日被告蚕糸共同株式会社(以下被告「蚕糸共同」という)から、糸格(生糸の格付をいう2Aのもの一〇俵(中野製糸株式会社製造にかかるもので検査番号Y一三八四四号・註・通常生糸は一〇俵を一荷口とし、荷口単位に取引される。)を、代金一、八八〇、一〇九円で買い受け、その翌日代金を支払つた。

(ロ)  同原告は昭和三三年一月九日被告日本農林株式会社(旧住所ならびに商号・横浜市中区北仲通五丁目五七番地泉シルク株式会社が昭和三八年七月二九日商号を変更して、同年八月五日登記した。便宜上被告「泉シルクという)から、糸格2Aのもの一〇俵(日本シルク株式会社製造にかかるもので検査番号Y〇〇〇一九号)を、代金一、九四五、〇八七円で、また糸格Aのもの一〇俵(日本シルク株式会社製造にかかるもので検査番号Y〇〇〇三五号)を、代金一、九二八、二五三円で買い受け、その翌日右代金合計三、八七三、三四〇円を支払つた。

二、原告は被告らから買い入れた右生糸(以下「本条生糸」という)を、即日横浜市所在の帝蚕倉庫株式会社に寄託し、同会社はこれを同社所有の生糸保管専用倉庫に保管し、引続き現在も保管している。

三、ところが、本件生糸買い入れ直後横浜生糸検査所において実施した練減率(生糸を精練する際に除かれるセシリンの減少率をいう)実態調査のため、本件各荷口から検査料糸をランダムに抽出して調査した結果、その生糸は一般のものに比較して練減率が大きく、異常性の存在を疑わしめた。そこで右検査所はあらためて昭和三三年三月二八日本件各荷口からそれぞれ五かせの検査料糸をとつて、その各一部を化学分析試験に付したところ、その生糸は一般の生糸にくらべその成分が異常であることを確認した(つまり、それは本件生糸の製造過程において特殊の薬剤を使用したことに起因するものと認められた)。他方同検査所で保管中の、そのよのかせは翌年五月頃にいたつて著しく変色し、また脆弱化していることが判明した。ここに至つて原告は、前記帝蚕倉庫株式会社の倉庫に保管中の親荷口も同様の状態を呈しているのではなかろうかと危倶を抱き、先ず本件生糸のメーカーである日本シルク株式会社及び中野製糸株式会社の社長を兼任している中沢寿(同人は被告泉シルクの社長でもある)につき、事情を聴取するとともに親荷口の開封検査への立会と、もし親荷口にも同様の変化が生じている場合における荷口の取り換えを再三要望したが、同意をえられなかつた。

そこで原告は、帝蚕倉庫株式会社へ寄託した親荷口を開封して検査を実施するため、昭和三四年八月八日被告泉シルクの取締役二宮慶一、被告蚕糸共同の専務取締役石田満郎、メーカーである日本シルク株式会社の取締役平井利三、同じく中野製糸株式会社の監査役岩垂政人のほか東京農工大学繊維学部助教授富田昇らの立会いの下に検査したところ、検査料糸と同様、荷口全体にわたつて著しく変色・脆弱化していることが判明した。

すなわち荷口全体にわたり層をなして褐色ないし黄色化しており、褐色化した部分は指先でちよつと摩擦するとたやすく切断し、褐色にいたらない黄色化したところも軽くさばけば切れ糸を生ずる状態であつた。

四、本件生糸は、買入れ前所定の検査をしたが、それは総じて物理的方法によるものであるから、前記の瑕疵を発見することができなかつた。前記の結果は買い入れ後に顕われたものであるが、しかし買い入れ当時既に潜在的にその原因があつたのである。本件売買が、本件生糸が生糸としての通常の品質を有するものであることを前提に(本件生糸につき検査規格以外に何らかの品質保証の話し合があつたという趣旨ではない)なされたことはいうまでもないが、しかし前記検査の結果で明らかのように、それは生糸としての用をなさないものである。すなわち繰り返えすと、荷口全体にわたり層をなして褐色ないし黄色化しており、褐色化した部分は指先でちよつと摩擦するとたやすく切断し、褐色にいたらない黄色化したところも軽くさばけば切れ糸を生ずる状態であつた。したがつて本件生糸の売買契約にあたつた国の担当官(農林省蚕糸局長)の意思表には、その重要な部分に錯誤があつたものというべく、よつて本件各売買契約は無効である(契約の要素に錯誤がある場合には、民法の瑕疵担保の規定の適用は排除される「最高裁・昭和三三、六、一四、集一二巻九号一四九二頁)。してみれば、被告らは法律上の原因なくして、原告の損失において前記売買代金相当額の利得をなしたもので、その利得は現に存在するから、原告は、被告泉シルクに対し三、八七三、三四〇円、被告蚕糸共同に対し一、八八〇、一〇九円及びこれに対する原告が被告らに対し昭和三五年一〇月二六日附をもつて同年一一月五日までに支払うよう告知した右期限の翌日である昭和三五年一一月六日以降支払いずみまで、民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

なお、原告は本件生糸を第二項記載のとおり帝蚕倉庫株式会社に寄託し、同会社に対し昭和三八年一一月三〇日までの保管料として、別紙計算表のとおり、被告泉シルク分につき一五九、一〇九円、被告蚕糸共同分につき八〇、三九三円を支払つたから、民法第一九六条にもとづき、被告らに対しそれぞれ右金員の支払いを求める。

原告は、被告らの主張に対し、次のとおり述べた。

一、原告は被告らから本件生糸を買い入れたのである。このことは必ずしも被告らが商法にいわゆる問屋であるか否かにかかわりないことである。「自己の名を以て他人のために」法律行為の当事者となり、その取引に関する権利義務の主体となる取引の形態は一般に存在しうるところであり、ただ商法はこのような取引形態が営業としてなされる場合に、これを問屋として制度化しているにすぎない。被告らは本件各売買契約において自己の名を以て他人のために当事者となつたものであつて、被告らが問屋でない限り本件売買契約における法律関係の主体となりえないというような筋合のものではない。

横浜における生糸問屋は横浜開港の頃から発達の緒についたものといわれ、明治後期には既に経済界にその地位と機能を確立し、爾後輸出生糸の殆んどは横浜の生糸問屋を通じて取引され、戦時中及び戦後の或る期間その姿を消したことはあるが、昭和二三年再び復活したが、その際政府は輸出生糸問屋許可規程を制定公布した。被告らは右規程にもとづいて輸出生糸問屋として許可され、問屋営業をなすに至つたものである。ところで同規程第一条は、被告らのいうとおり、輸出の目的をもつてする生糸の売買取引の仲立又は取次を営む者を輸出生糸問屋としているが、横浜においては右仲立営業のみをなすものは皆無といつてよく、取次営業がその殆んどである。世上問屋と称せられるものの実態は必ずしも商法にいう問屋にあたらないものもあるが、横浜における生糸問屋こそ正しく商法にいわゆる問屋すなわち荷主の計算において自己の名を以て生糸の委託販売をその営業とするものである。もつとも戦後の輸出生糸問屋は、戦前のそれと形態、内容を全く逆転し、問屋自体製糸業資本の系統に属するものが増えているが、だからといつて横浜における生糸問屋がその実質を喪失し、単に製糸業者と輸出商間の取引における仲立もしくは製糸業者の代理商的実質を有するにすぎないとみることは、殊更ら現実を無視するものである。現に被告らを含む横浜の各生糸問屋は、戦前における生糸問屋の商慣習を引継いで成文化した「輸出生糸問屋取扱規約」及び「輸出生糸売買取引規約」にもとづいて営業をしているが、それは名実共に商法にいう問屋であるとするにいささかもはばかりないものである。本件各売買は、被告ら主張のように、被告らが単に中野製糸株式会社、日本シルク株式会社(いずれも製糸業者)の代行機関として関与したものでなく、被告らが各売買の当事者となつたものである。

二、被告らは本件生糸の瑕疵は要素の錯誤にあたらないとし、独特の意思表示論を展開するが、しかし本件生糸の売買は、生糸としての通常の品質を持つものとしてなされたことは、まぎれもない事実であり、その生糸が請求原因記載のような品質のものであつたことも事実であるから、その瑕疵はまさに法律行為の要素の錯誤にあたる場合である。

被告が引用する大審院判決は理論的に疑問なきをえないところであり、つとに学者の指摘したところである。従つて原告引用の最高裁判決が右大審院判決を引用しているのも単に要素の錯誤がある場合は瑕疵担保の規定の適用は排除されるという趣旨に止まり、その特異な理論構成までも踏襲したものとは解されない。従来目的物に瑕疵がある場合、それが要素の錯誤にあたると同時に契約をなしたる目的を達すること能はざる場合にあたるとき、その関係を如何に調整するかは学者間に多くの議論があつたが原告引用の最高裁判決によつて、この議論には終止符がうたれたわけである。

原告は証拠として甲第一号証の一ないし六、第二号証の一ないし四、第三号証の一、二、第四号証、第五、第六号証の各一ないし三、第七号証の一、二、第八ないし一〇号証、第一一号証の一、同号証の二の一ないし三、同号証の三、同号証の四の一ないし三、同号証の五、同号証の六の一ないし三、同号証の七、同号証の八の一、二、同号証の九、同号証の一〇の一、二、同号証の一一、同号証の一二の一ないし三、同号証の一三、同号証の一四の一ないし三、同号証の一五、同号証の一六の一ないし三、同号証の一七、同号証の一八の一ないし三、同号証の一九、同号証の二〇の一ないし三、同号証の二一、同号証の二二の一、二、同号証の二三、同号証の二四の一、二、同号証の二五、同号証の二六の一ないし三、同号証の二七、同号証の二八の一ないし三、同号証の二九、同号証の三〇の一ないし三、同号証の三一、同号証の三二の一ないし三、同号証の三三、同号証の三四の一ないし三、同号証の三五の一、二、同号証の三六、同号証の三七の一、二、同号証の三八、同号証の三九の一ないし三、同号証の四〇、同号証の四一の一ないし三、同号証の四二、同号証の四三の一ないし三、同号証の四四、同号証の四五の一ないし三、同号証の四六、同号証の四七の一ないし三、同号証の四八、同号証の四九の一ないし三、同号証の五〇、同号証の五一の一ないし三、同号証の五二、同号証の五三の一ないし三、同号証の五四、同号証の五五の一ないし三、同号証の五六、同号証の五七の一ないし三、同号証の五八、同号証の五九号証の一ないし三、同号証の六〇、同号証の六一の一、二、同号証の六二、同号証の六三の一、二、同号証の六四、同号証の六五の一ないし三、同号証の六六、同号証の六七の一ないし三、同号証の六八の一ないし三、同号証の六九の一ないし三、同号証の七〇の一ないし三、同号証の七一の一ないし三、同号証の七二の一、二、同号証の七三の一ないし三、同号証の七四の一ないし三、同号証の七五の一ないし三、同号証の七六の一ないし三、同号証の七七の一、二、同号証の七八の一、二、同号証の七九の一ないし三、同号証の八〇の一ないし三、同号証の八一の一ないし三、同号証の八二の一ないし三、同号証の八三の一ないし三、同号証の八四の一ないし三、同号証の八五の一ないし三、同号証の八六の一ないし三、同号証の八七の一ないし三、同号証の八八の一ないし三、同号証の八九の一ないし三、同号証の九〇の一、二、同号証の九一の一、二、同号証の九二の一ないし三、同号証の九三の一ないし三、同号証の九四の一ないし三、同号証の九五の一ないし三、同号証の九六の一ないし三、同号証の九七の一ないし三、同号証の九八の一ないし三、同号証の九九の一ないし三、同号証の一〇〇の一ないし三、同号証の一〇一の一ないし三、同号証の一〇二の一ないし三、同号証の一〇三の一、二、同号証の一〇四の一、二、同号証の一〇五の一ないし三、同号証の一〇六の一ないし三、同号証の一〇七の一ないし三、同号証の一〇八の一ないし三、同号証の一〇九の一ないし三、同号証の一一〇の一ないし三、同号証の一一一の一ないし三、同号証の一一二の一ないし三を提出し、証人三橋誠一、小山義夫、中村正彦、川口正一、森本宋 江口晃平、岩崎定夫の各証言を援用し、乙第一ないし三号証、第七号証の一ないし三、第八号証の二(原本存在)の各成立は認めるが、そのよの乙号証の成立は知らないと述べた。

被告ら訴訟代理人は、原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、請求原因事実に対して「第一項中原告が繭糸価格安定法にもとづき生糸の買い入れ業務を行うものであることは認めるが、被告らが『問屋』であることは否認する。被告らが各々原告とその主張の売買契約を締結した事実はないが、被告らが各々原告主張の日にその金員を原告から受領したことは認める。第二項の事実は認める。但し被告らが売主であることは否認する。第三項の事実は認める。但し日本シルク株式会社及び中野製糸株式会社を単なるメーカーと指称している部分は争う。第四項は争う。」と述べた。

被告らは、次のとおり主張した。

一、被告らは所謂輸出生糸問屋である。輸出生糸問屋は蚕糸業法施行令第四条第一項にもとづいて制定された輸出生糸問屋規程(昭和二三年六月八日農林省告示第一一八号)により誕生し、これに規制されている業者である。この業者は輸出の目的をもつてする生糸の売買取引の仲立又は取次を営業内容とし、農林大臣の許可を要するのであるが、被告蚕糸共同は昭和二三年六月八日、被告泉シルクは昭和三二年三月六日に右許可を受けた。

本件生糸については、被告蚕糸共同は中野製糸株式会社より、被告泉シルクは日本シルク株式会社からそれぞれ委託をうけて、帝蚕倉庫株式会社へ寄託(搬入、庫出しを含む)、農林省横浜生糸検査所における国際格付検査の受検ならびに原告への売却手続一切(代金受領も含む)を代行したもので、ただそれを被告らの名においてしたにすぎない。かかる取引態様は本件生糸取引について採られた異例のものではなく、全輸出生糸問屋が多年行つてきたものであつて、慣行として確立されている。因みに被告らの右業務によつて得る収入は、取扱手数料名義のものだけで(格付検査料、倉庫保管料等の実費は委託者負担)その額も業者間の協定があつて、現在は取扱高の一パーセントである。原告は本件生糸の買主であるばかりでなく、生糸格付検査の実施者であり、かつ生糸業全般の監督者であつて右の事実を知悉している。さればこそ原告は、本件生糸の開封検査を昭和三四年八月八日実施するにあたり、その招集通知を農林省蚕糸局長名義をもつて中野製糸株式会社と日本シルク株式会社に出したが、その書面の冒頭に「貴社より繭糸価格安定法第二条の規定に基いて買入れた生糸の一部についての変質の有無を調査するため……」としたのに、被告らに対しては横浜生糸検査所の係官から電話で連絡されたに止まる。検査に立合つた被告ら側の石田満郎、二宮慶一は代行者として参加したもので、このことは原告側関係者も固よりその立場を諒知していた。又右開封検査に先立ち農林省蚕糸局長の招致にもとづいて前記記二会社の社長中沢寿が本件生糸問題につき同局糸政課長ら係員と懇談したが、その際右係員らは中沢に対して、本件生糸の売主として善処方を要望したのに、被告らに対してはそのようなことが全くなかつた。

二、本件売買は、検査番号(検査証)によつて特定された生糸についてなされたものである。特定物の売買においては、契約対象物がこれと同種の物件の通常有すべき一般的性状を具有していたか否かは、問題とならないから、右の誤認は意思表示の要素の錯誤とはなりえない。また特定物が契約時において、そのものとしての用途に使用収益しうるものである以上、その後の時点において通常予想される変化以外の変化か生じないものであること、換言すれば隠れた瑕疵のないものであることを要するとは民法第五七〇条の規定よりして特定物売買一般について要求される共通事項であり、特殊性をもつ個々の意思表示の内容の中で特殊な重要事項とされるものではないから、この点についての誤認は意思表示の錯誤たりえず、又その要素の錯誤とはなりえない。さらに特定物の売買において、その性状についての誤認が意思表示の要素の錯誤たりうる場合があるとしても、その物を如何なる性状のものと認識し又その物についての如何なる性状を重要視したかが当該意思表示の中に表示されない限り、その性状についての誤認は、意思表示の要素についての錯誤とはなりえない。

原告が引用する判決の判旨第二点が参照している大正一〇年一二月一五日大審院判決は「売買の目的物に品質上の瑕疵ありて為めに意思表示の錯誤を生じたる場合と雖も」、「当事者が特に一定の品質を具有するを以て重要なるものとし意思を表示したるに其品質に瑕疵あり若くは之を欠缺するが為め契約を為したる目的を達成すること能はざるとき」において意思表示の要素の錯誤の適用があり、「当時者が一定の品質を具有することを重要なものとして意思表示をせず、而も売買の目的物に品質上の瑕疵ある為め契約を為したる目的を達すること能はざるとき」には瑕疵担保の適用があるとし、契約当事者が一三〇馬力の出力あることを目的達成に重要なものとして意思を表示したか否かを審究すべしとするのが結論である。

原告は「本件生糸が生糸として通常有すべき品質を有しなかつた。本件生糸は契約時後に生糸としての用をなさなくなつた」という主張をするのであるが、これをいいかえると将来において変質すべき原因が既に存在していたが、契約時には本件生糸は生糸本来の用途(織物等にする)に充てるに支障のないものであつたというのである。してみれば本件生糸は売買契約時には生糸としての用をなすものであつたのであるから、原告主張の瑕疵なるものは、前記判例における意思表示の錯誤の場合の誤認の内容に当らない。

三、本件生糸の売買は、被告らがいずれも訴外会社の代行者としてなしたものである。被告らが原告に関する関係において本件生糸の売主であつたとされた場合でも、被告らは各々原告から受領した金員を中野製糸株式会社、日本シルク株式会社の債務の支払いに充てた外、そのよを中野製糸の指定した泉シルク(この部分については泉シルクは被告の立場でない)に交付したから、被告らは何らの利得をしていない。

四、既に述べたとおり、被告らは訴外会社から委託をうけて、被告らの名において原告と本件生糸の売買契約をしたものであつて、本件生糸自体については何らの権原を有せず、また本件生糸を原告に引渡したことによつて損失を蒙つてもいない。されば被告らが自己の名において原告から本件生糸の返還を受くべき者でもないから、原告に対し、民法第一九六条により本件生糸に関する必要費(保管料)を支払う義務もない。

被告らは証拠として乙第一ないし三号証、第四号証の一ないし三、第五号証の一、二、第六、第七号証の各一ないし三、第八号証の一ないし五を提出し、証人鈴木慶司の証言と被告泉シルク代表者中沢寿、被告蚕糸共同代表者石田満郎の各尋問の結果を援用し、甲第一号証の一ないし六、第二号証の一ないし四、第三号証の一、二、第五号証の一ないし三、第七号証の一、二(原本の存在も)、第一〇号証の各成立は認めるが、第四号証、第六号証のないし三、第八、第九号、第一一号証(枝番全部を含む)の各成立は知らないと述べた。

理由

請求原因第一項の事実中被告らが各売主であることを除き、そのよの事実は当時者間に争いがなく、右事実中(イ)の売買の売主が被告蚕糸共同で、また(ロ)の売買の売主が被告泉シルクであることは、証人鈴木慶司の証言の一部と成立に争いのない甲第一、二号証の各一によつて認めることができる。被告蚕糸共同が昭和三二年頃、被告泉シルクが昭和三三年頃共に輸出の目的をもつてする生糸の売買取引の仲立又は取次を営業目的とする輸出生糸間屋であることは、当事者間に争いないが、しかしこの事実が、前段の認定をなす妨げとはならないし、また成立に争いのない乙第一ないし三号証(農林省蚕糸局長が本件生糸の変質又はその開封立合について、日本シルク株式会社及び中野製糸株式会社の各社長中沢寿に宛てた文書)に「貴社より買い入れた生糸」という記載があるが、これは、当事者間に争いがないとおり、当時中沢寿が被告泉シルクの代表取締役と前記二つの会社の社長を兼ねていたこと及び弁論の全趣旨に照らすと、充分に注意しないで書かれたものと推認されるから、右書証によつて前記認定を覆すことができず、さらには被告蚕糸共同代表者石田本人の供述中被告らの主張にそう部分は直ちに措信できず、他に前記認定を覆すにたる証拠がない。

本件生糸についての売買は、要素に錯誤があつて無効である、という原告の主張につき考えるに、先づ請求原因第三項の事実は当事者間に争いがない。すなわちその一つは、昭和三四年八月八日の開封検査によつて「本件生糸の荷口全体にわたつて著しく変色・脆弱化していること、荷口全体にわたり層をなして褐色ないし黄色化しており、褐色化した部分は指先でちよつと擦するとたやすく切断し、褐色にいたらない黄色化したところも軽くさばけば切れ糸を生ずる状態であつた」ことが判明したことである。また原告が繭糸価格安定法にもとづいて本件生糸を買入れたことも当事者間に争いがなく、また買入れ前になした検査が物理的方法によるものであることは、被告らが明らかに争わないところである。以上の事実を綜合するときは、農林省蚕糸局長(成立に争いのない甲第一、二号証の各一によれば糸価安定特別会計支出負担行為担当官須賀賢一が契約書に記名捺印している)は、被告らと本件生糸につき売買契約を締結するにあたり、本件生糸に前記瑕疵の原因が潜在していたことを知らず、本件生糸が生糸として通常保持すべき品質を有するものと誤信して、繭糸価格安定法第一、二条にもとづいてこれを買入れる意思表示をしたのであるから、その意思表示は要素の錯誤があつて無効であると解するが相当である。

本件生糸の売買代金として原告から、被告泉シルクが昭和三三年一月一〇日金三、八七三、三四〇円、被告蚕糸共同が昭和三二年一二月一九日一、八八〇、一〇九円を受取つたことは、当事者間に争いがない。しかしながら前記の如く本件生糸の売買が無効であるから、(かかる場合に民法第五七〇条の規定の摘用が排除されることは、原告引用の判例の示すところである)被告らは原告の損失において右金員を利得したもので、かつそれは現存しているというべきである。被告らはその主張三に於て利得をしていないと抗争するが、仮りに被告らが右金員の一部を、本件生糸の売買の委託者である中野製糸株式会社、日本シルク株式会社の債務支払い等に充てたとしても、被告らは、原告との売買が無効であることを主張して、その金員相当額を右会社に対して返還請求することができるから、被告らの主張は理由がない。

成立に争いのない甲第七号証の一、二によれば原告が被告らに対し昭和三五年一〇月二六日附をもつて本件生糸売買代金に相当する金員を同年一一月五日までに支払うよう請求した事実が認められ、この意思表示がその頃被告らに到達したと推認できるから、原告に対し被告泉シルクは三、八七三、三四〇円、被告蚕糸共同は一、八八〇、一〇九円及びこれに対する昭和三五年一一月六日から完済まで、民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。

原告が本件生糸を帝蚕倉庫株式会社に寄託したことは、被告らの認めるところである。証人岩崎定夫の証言によつて成立が認められる甲第一一号証の一ないし一一二(枝番を含む)によれば、原告は帝蚕倉庫株式会社に対し本件生糸の保管料として、別紙計算表記載のとおり、被告泉シルクの分につき昭和三三年一月九日から昭和三八年一一月三〇日までに一五九、一〇九円、被告蚕糸共同の分につき昭和三二年一二月一八日から昭和三八年一一月三〇日までに八〇、三九三円を支払つた事実が認められる。右金員は原告が本件生糸の占有者として、その保存のため支出したものであるから、その回復をうくべき被告らは、これを原告に償還すべきである。即ち原告に対し被告泉シルクは一五九、一〇九円、被告蚕糸共同は八〇、三九三円を支払うべき義務がある。

以上により、原告の被告らに対する本訴請求はすべて理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条を、仮執行の宜言につき同法第一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 石橋三二)

本件生糸の保料計算表〈省略〉

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